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なぜ悩むことは無駄で意味がないのか?解説する

なぜ悩むことは無駄で意味がないのか?

「苦」を経験した先に到達する、ひとつ抽象度が高い見解について話そうと思う。

 

かんたんに言うなら、

わたし達は、悩む為に、肉体を持った訳ではなく

 

制限がある次元の中で、感じる幸福を経験することに興味を持ち

サディスティックな遊びを経験するのが、3次元の社会かな。

 

じっさいは、3次元の社会で生きていると錯覚している

フルダイブ型の夢が、現実世界と言われているもので

 

肉体があることで、

やたらリアルに制限を感じる事が出来る巧妙な仕組みとなっている。

 

わたしもかつては

「悩むことは無駄で意味がないから、いますぐ、決断しなさい。」

と急かされる度に

「なぜ、悩んではいけないのか?」疑問に感じることが多かった。

 

もし、わたしが、なんでも即決マンで、

3次元的なところで言う、

「時間」をショートカットする事が正義だと考えて生きていたとしたら

 

きっと、早々、はやい段階で、

「あ、自死した方が懸命だ!」という単純なトリックに気づいて

こんなに、ずるずる長く生きる事もなかったと考えているので

 

「悩む=消えたい」感覚をリアルに体感することは

極めて、ふつうの感覚だと考えている。

 

考えすぎて行動できない短所を一言で長所にする方法

【学校教育の生徒の現場指導に関して】

 

そして、自死する覚悟もなく

長いこと、じぶんをごまかしてやりくりした先で

おなじような感覚を持っていたけれど

 

「人間の◯◯さん」として、欲を持って生きるのではなく

肉体を持ってはいるけれど

 

じぶんの欲(エゴ)をぜんぶ、たくさん叶える感覚を捨てて

 

ただ、じぶんの肉体を借りて、映像を見たがっている

源の力のしぜんな感覚に任せて、

じぶんの役割をまっとうする生き方もあることを知っている人が

増えてきたように思う。

 

じぶんを、世の中の三角ピラミッドの中の「人間の◯◯さん」として

生き続ける事が、あまり「苦」にならない人もいれば

 

わたしのように「苦」に敏感過ぎて

ピラミッド社会から、強制離脱する生き方を選ぶ人もいる。

 

肉体は健康体だけど、「エゴ」の思う通りに生きる生き方で生きられる人もいれば

わたしのように、「エゴ」の思う通りに生きせれない人もいて

 

ただ、役割が違うだけといった感じ。

 

「じぶんが◯◯している」という感覚はエゴの苦しみが背後にある感覚とセット。

「じぶんが◯◯させて貰っている」という感覚もエゴのない苦しみがセット。

どちらが楽な役割(生き方)か?の違い。

 

もちろん、じぶんで選択して、ピラミッド社会から離脱した

なんでもない、じぶんとして生きる事も、もちろん出来る。

 

理由は、かんたんで、わたし達は、

元々は、素粒子=光=波が、ただ、物質化されている存在だから

意識エネルギー=周波数を変えて生きる事を選択すれば良いだけなのだ。

 

つまり、じぶんに定義づけしている重さを解き続け

存在があるだけで、循環する場を作れば良いだけで、気合いは必要ない。

 

わたし達は、存在として在るだけで、尊重される事を忘れている。

 

わたし達は、「苦」に対して対価を求めた時に、最も、「苦」を感じる。

 

なので、最も、効率が良い生き方は

ほかのだれかは「苦」と認識しない人がいる事を考えると

じぶんだけが「苦」を感じやすいポイント・傾向があるので

それらを避けることで、じぶんを尊重する生き方にシフトするか

 

やりたいことをやっていても、「苦」を認識する時は

 

3次元生活はタイムラグがあり、良き方向に向かっている事を

忘れていることを思い出すことだ。

 

わたし達は余裕が無くなると「点」しか見る事が出来ない。

 

そして、「苦」を「点」と捉え「点」のみを観測する時、

「線」や「立体」を振動して、意識を使い生きていることを忘れている。

 

「苦」を観測する時は、なにもしないで、

つぎ、やりたいと衝動が出るまで待つ、

 

この、タイムラグがあるゆとりも含めて

 

3次元を生きている事を理解しないと

「苦」の連動性がある生活をじぶんで許容していることになる。

 

「苦」と言えば、お金もそのひとつで

「ないお金」をじっと見続ける限り、「苦」しかない連続性を経験する。

 

「苦」もいずれ、観測することを飽き始めるので

それまで、もがくことも、3次元だから出来る経験と言える。

 

じぶんの「苦」のパターンや恐れを葬る事が出来るのは

じぷんの意識だけだ。

 

「忘却の美学」を身につけ、

新しいことが入る隙間を作り続ける事が、わたし達の本来の仕事。

 

存在と経験は、認識した時点で、いつも尊重されている事を考えた時

わたし達は、「苦」を見つめても意味がなく

 

次々、認識した事を体験するだけで良い

リアルダイブ型の夢の中にいる事を忘れている。

 

​​「そのままでいいよ」というより

「そのまましかない」

いまの連続性によって、毎日体験する事が決まっていると考えても、過言ではないのだ。

 

わたし達は、じぶんが認識した世界しか、体験する事が出来ない。

 

認識出来る時点で、立派に生きているし

 

じぶんが、観測し、認識し、体験したいと感じた世界で

 

だれかの定義を採用する必要はなく

ただ、じぶんが認識した事を採用すれば良いだけの話なのだ。

 

「苦」のつぎは「苦」。

「苦」のつぎに「快」はないことを忘れているだけ。

「快」のつぎにしか「快」はない。

「苦」を葬ることが、ほんとうの意味での賢いなのだ。

 

だから、他人と比較して、じぶんが望んでいると錯覚している「ない物」を見続ける限り

いま「在る」ものに目が向かないので、「ない物」の連続性のいまが続く。

 

「ない制限」を経験しに来ているので、

「じぶんに在る」だけを見続ける事で「苦」から脱出出来るのだ。

 

わたし達の肉体もお金も、

3次元生活の不自由な幸福や感情を知る為の

じぶんで創った借り物であることを忘れていて

 

すべてのセットを創った際に

じぶんで、創り出した「苦」を超えられないほどには

難解にしていないことを忘れているだけ、といった感じ。

 

たとえば、「美味しいものを食べる」を想念した時に

外食をイメージする人もいれば、

家で、宅配することをイメージする人もいる。

 

満足の加減が違うことや、じぶんにとっての満足の違いを認識し

その肉体を持って、満たす役割は在る。

 

ということは、

認識出来た世界を体験する為の必要品は、在り続けているのだ。

 

もちろん、その認識が、じぶんの本意から欲しいもので

違和感のないものであれば、という話なのだけど。