じぶんを生きる方法

愛したい人こそ好きな人に愛されたいと言えた方が良いって話

女性も稼ぐ時代に突入して、感じることは

一周回って、

「愛したい人こそ、好きな人に愛されたいと言えた方が良い。」という事だ。

 

世の女性の一歩先の時代を歩いているAKB48のゆきりんこと「柏木由紀」さんと

陰キャ女性YouTuber「エミリン」 のコラボ企画で

 

ゆきりんが

「わたしは、好きな人に愛されたい!

愛されたいの形は、わたしの自己主張がないことが、じぶんの意思。

 

極論、好きな人が、これをしたい!と話していることを

真似するだけで、しあわせ。」と話しているのを観て

 

母性の豊かさを感じた。

 

女性が充実した仕事を行い、仕事で満たされた果ては

「なんでも良い。けど、好きな人には愛されていたい。」

細やかな幸福を夢見ている世界線があるという事だ。

 

【コラボ】エミリンと恋バナしました!!!

 

 

仕事で、満足を得ていない内は、

仕事を軸に考える事で、「好きな人をどこまでも、愛したい」と錯覚する。

 

好きな人に尽くした果てに、

自我が強過ぎることで、女性性(受け取り)が機能せず

女性として、満たされない時間を過ごし、あとで、辛い想いをする事も少なくない。

 

男性性(顕在意識)=目に見えるものだけを観て

仕事で、稼ぐことや

男性に依存しないことを求められる社会になったいま

 

むしろ、堂々と

「男性に愛されたい!愛されたいと言える自己肯定感があるくらい

じぶんの人生が充実したものであると実感している。」と言える生き方こそ

女性が望んでいる生き方なのではないかと、考えている。

 

男性に依存する生き方を選択した果てに

女性として、愛されなくなった事で

 

「男性に依存する生き方より、おんな一人で生きる方が楽!賢い!」

といった方向性の投稿は、非常に目立つ。

 

個人的には、

「男性に愛されなくても、おんな一人で生きられる」論の推進より

 

「おんな一人で愉しく生きるスキルがあるから、

男性にも、愛され、ふたりで、想像的な場を創れる」論を推進したい。

 

わたしは、「女性を愛したい男性」は、沢山眠っていると考えている。

 

女性が「愛したい」気持ちが強いのとおなじくらいに

誰もが、誰かを愛したい気持ちはあるに違いないのだ。

 

むしろ、戦闘力高めの女性が増え過ぎたことで

「強いおんなが増えたから、僕たちお役目無くなったかも…。」と

感じている男性の方が多いのではないかと考えている。

 

「女性と男性の愛したい」が噛み合わない時代の理由は

こころのよゆうの持ち方な気がする。

 

書いていて気づいたけれど

女性も男性も、稼ぐ時代に突入した先で

ほんとうの意味で、

創造的な循環が起こる時代が来るのかもしれないね。

 

「稼げるからこそ、愛されたい」時代が巡って来た時に

これまで、女性は家にいるべきと考えられていた概念が変わって

男女共に、共同制作に目覚めるのだ。

 

ほんの少し、「存在が在るありがたさ」を尊重出来たら

わたし達は、互いの愛し方を見つめ直す時間を取る事が出来

 

冷静に、「いつもと違う感情の選択」をする事で

ステップアップ出来たのではないか?と想うこともある。

 

「男性に愛されたい」と言えなかったこじらせ系女子が

「おんなひとりでファンキーに強く生きる論」より

 

「じぶんは、ひとりでも愉しめるけど

何歳になっても、かわいく生きたいし、女として、愛される論」こそ

 

男女が求める

子育ても、うまくいく世界線ではないかと、思う。

 

一周回って、わたしも

「じぶんが、したい優位」と「干渉しないで欲しい」より

 

エネルギーの話や意識のマニアックな話が出来る人と

仕事の話を共有して

 

男性性優位で育ったので、

女の子として「愛されたい」と、色々あった果てに、実感する部分が多い。

 

ぐでだま張りに

「はぁ〜。わたしをずっと愛して〜💓」なのだ。

 

ぐでたまゲーム実況 マイクラ#1「お家を作ろう」(English subtitled)

 

「愛したい」が強過ぎると「愛されたい」が言えない。

 

そして、「愛されたい」を口に出来る度量が増えない限り

この世界は、女性性(無意識の領域)で出来ているので

男性性(健在意識の領域)だけで生きるには、少々難が大きいはずだ。

 

 

なにもしなくても「愛される」じぶんの像が浮かばない事で

「愛されるって、なんぞや??怖い!!

がんばってないと愛されないんじゃなかったの!?」と

嘘をつき続け、翻弄してきたエゴの正体に気づくからだ。

 

いつかは、見て見ぬ振りしてきた

エゴが消える恐怖心と向き合うと「穏やかなこころ」を掴む事が出来る。

 

なにもしなくても、至福の果てに

「わたしは愛されていて良い自信」を手にし

世界が味方となるのだろう。

 

なんでもウェルカムな世界の中で

ちょっとしたわがまま的に持つ、エゴを大切にしてくれる人を好きたい…。

 

ほんものの贅沢に気づくのだ。

 

正直、「なんでも良い。こだわりがない。」気持ちは

男女、おなじなのではないか?と思う。

 

長く生きていたら

 

うどんも、お茶も、なんでも

似たようなものを何十回と何十年と食べていたら

 

美味しくても、飽きは多少あるし選ぶことにも、気力を使うものだ。

 

ただ、ほんの少しの自我のいたずらで

「こだわりがあるじぶんでも、愛されていたい」

健気なこころを、好きな人には知っていて欲しい。 それだけ。