じぶんを生きる方法

愛とはどういうもの?どんな存在のことなの?

「愛とはどういうもの?どんな存在のことなの?」と

ないもの探しをするエゴを経験する為に、わたし達は、肉体を持っている。

 

3次元の物質社会の

「白・黒」「あるか・ないか」の二言論を愉しむ為に

 

お金や物質があれば、

幸福であり、愛されていて

 

他者との比較競争によって

幸福になれる刷り込みによって

 

「愛」を探す迷宮ゲームに突入する。

 

「愛」を探したくなるとき思い出すべきことは

じぶんがただ在るだけで

「愛」が在り続けていた事にほかならない。

 

「愛」の本質は、物質や言語・思いやりのことばなどではない。

 

ただ、いまここに「意識エネルギー」が在り

意識を持って、なにかを認識しているエネルギーが在ることだ。

 

なにかを認識しているエネルギーが在る限り

人間の感覚で言う

良い事も、悪い事も在る世界は、無くならない。

 

わたし達は、肉体を持って生きているけれど

 

どちらかと言えば、

現実世界は、リアルダイブ型の巨大モニターのようなもので

 

思い込みと執着を剥がし続けるだけで見る面が変わり続ける

 

個人・個人、設置されているモニターを見ている感覚に近いだろう。

 

「モニターを見ている」のに

モニターにいちいち反応する肉体がある滑稽な状態と言える。

 

わたし達は、本来、意識エネルギーだけなら

「他人に、依存しないと不安」的な価値観・概念を持っていない。

 

肉体を持つ為に、

「家族」というドラマ・物語(依存)が必要で

 

意識エネルギーの向上を極めてしまったら

周波数が変わるので

実は、家族と接触する事が出来なくなる

 

あいまいな世界線を愉しむ為に生きている。

 

わたし達のほとんどは、3次元世界を愉しむ為に

「ストレス=現実化のタイムラグ」が必要で

それは、不幸でもなく、単なる経験・データなのだ。

 

データは、肉体を離れる時に

名前という概念を持たなくなる事で

「じぶん」という定義を失ってしまう。

 

「じぶん」の定義づけがなくなった

エネルギーは、顔を失い

ただのエネルギーだけになる。

 

「だから、愛とは、いまここに存在が在ること。

そして、関わる事で一緒に

おなじ世界を共有しているエネルギーがあることも愛」なのだ。

 

「愛」の定義を変えない限り、外側の幸福に振り回され続ける。

 

「愛」されている時=意識エネルギーを持っている時

すでに、「愛」は在る。

 

エゴ的な個性と外側の枠で生きる(お金思考)ことより、

 

元々、在るエネルギーを尊重する生き方を

 

みなが、選択すれば、

現実世界はそれだけで、大体の事が解決される。

 

「元々、在るエネルギー以上」を求める生き方を選んでいる時に

わたし達は「苦」を生み出し、分離したじぶんに漬け込まれる。

 

じぶんのエネルギーに沿った在り方以上を

望んでしまうのは

 

じぶん以外の分離した存在と関わる度に

「依存」が解消されるように感じることを

「成長」と定義する為だ。

 

みなが求める進化とは、お金の為の競争社会の進化であり

お金の重いエネルギーの為の進化とは

みなで、おなじ船に乗って水没する退化とおなじで

 

「成長」をほんとうに目指すなら

極論、息をして、ただ存在するだけで、充分「成長」だ。

 

「元々、在るエネルギー」だけで

すでに完璧だった事を忘れる為のことばが「成長」。

 

わたし達は、選択を変える度に

「成長」ではなく、空間を切り変え続けている。

 

「成長」とは、期待による雑念に近いのかもしれない。

 

そのままでいいと言ってくれる人の心理