じぶんを生きる方法

罰を受けるべき・罰を与えるべき概念はないって話

地球の概念では、善・悪とお金による自立・依存の2元論が大流行しているので

「罰を受けるべき・罰を与えるべき」

「教えるべき・教わるべき」論が、豊富にやり取りされている。

 

わたし達は、ちょっと興味本意で、

エネルギーを動かしてしまったら収集がつかなくなってきた、素粒子=ひかりだ。

 

全員そうで、この宇宙に共存している

高次元の存在達も全員そうである事を考えると

 

先生病や刺激的な恋愛病にハマっている人が、

「罰」という遊びに翻弄されているように想う。

 

先生ビジネスを卒業しない限りお金と人間関係に悩む理由

 

 

この宇宙が、意識エネルギーで出来ている事を考えると

「罰を受けるべき・罰を与えるべき」と概念をつけ

ラベリングを採用する者がいる限り「罰」というエネルギーが存在する。

 

「罰」という概念がなくとも

わたし達、ひとり、ひとりが、ただ幸福であって良いところを

 

「罰」というエネルギーを欲しがる人を創ることによって

じぶんが罰せられることを求める人もいれば、他人を罰することを求める人もいる。

 

ネガティブなエゴゲームにハマると

じぶんの人生が、いつも安定感のないものになるので

 

「罰」や「刺激物」の劇薬が無くとも

愉しく生きて良いことや

 

こころの余裕があれば、欲しがらない劇薬品であると考えるのが、妥当だろう。

 

自分へのご褒美は気持ち悪いは嘘!当たり前に自分を大事にした方が良い理由

 

 

外側の社会で、ラベリングされている定義を

じぶんの人生に採用するか、どうかは、じぶん次第で

人生をつくりかえる事が出来る。

 

「罰せられたら、じぶんの存在が無くなったような気になれる。」というのも

幻想で、わたし達は、生まれる前も、死んだ後も

ずっと、意識エネルギーとして、在り続けるから、無意味だ。

 

「ひとを罰したい・じぶんが罪されたい」

もしくは、「罰を決める権限がある」という勝手過ぎる思い込みが、

 

じぶんの人生が安定感のないものになる事を採用する根源になる。

 

じぶん以外のだれかを罰したい時、

あなたは、被害者を装った加害者意識に加担している。

 

わたし達が、「罰」という概念を採用するこころを持つ限り

「救われないじぶん」

「幸福がいつも在り続けないじぶん」を生み出し続けるのだ。

 

元々は、そんなに罰する気持ちは持っていないのに

 

じぶんの出来なさを、他人に押し付けたくなる無力感が

ネガティブ感情に変わった時

 

矛先が、他人を通した「じぶん」を罰する発想になるのだ。

 

じぶんも、他人も、罰したところで

意識エネルギーは、存続し続けるものなので

 

与えた方も与えられた方も、ただ、肉体の貴重な時間を失うだけ。

 

「罰」がなくても、毎日、「ご褒美」は在り続けて良い。

存在そのものが、尊重されていない事は、変なのだ。

 

だって、「罰」を考える意識を持たず

「ご褒美」を考える意識だけ採用し続ける人が

人生がいつも、安定しているのだから

 

じぶんも、そちら側にシフトすれば良いだけなんだ。